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ナオミ物語 第2章 花と蛇以前

1960年代を通じて、ソフトコアポルノである「ピンク映画」は中小、

独立系のスタジオで制作されていた。 1971年には、日活が、その高

予算と品質のロマンポルノ"シリーで、"ピンク映画"市場に参入して

いた。1968年日活の最初の実験的ピンク映画で多数のスターが出演した

(おんな浮世絵風呂)を除けば、谷の公式な日活 ロマンポルノ の出演

はしなやかな獣たち(1972)の看護師のようにマイナーな役割だった。

彼女は日活映画で補助的な役割を果たすより、以前として小さなスタ

ジオの低予算映画で主演を勤めることを優先したのだった。谷の「かわい

らしい顔、美しい肌...そして96センチメートル(38")の巨乳だけでなく、

女優としての能力は、1960年代後半の彼女の人気女優になった。女浮世

風呂(1968/7/10公開 きよ役)、徳川女系図(おきぬ役)などもこのころ

の作品である。

この様にキャリアの初期段階であっても、低予算の独立

スタジオの仕事でも、谷はすでに「ピンク映画の女王」であり、 日本では

官能的映画女優代表として、1968年12月発行の米国プレイボーイ誌にも登場

した1972年、彼女は、団鬼六作品の2つの映画監督を務め(性の殺し屋 ほか)

「私は、拷問と緊縛のシーンに集中するようになった。」とのべた。

日活が谷に映画主演を提示しても、谷は提示してきた企画のどれもが「自分

じゃなくてもできる役」という事から決して首を縦には振らず、日活がSM

シーンの導入に消極的なことを理由にそれを拒み続けた。SMを演じることが

自分の使命だとさえ考えるようになった谷が最終的に出した条件は

untitled_20100131011154.jpg


「団鬼六の作品ならば…」だった。小沼勝監督はプロデューサーら4人で団

鬼六の自宅を訪ねた。応接室で折衝をしていたところ突然停電となり、そこ

へ蝋燭を持った和服姿の谷ナオミが現れて「いらっしゃいませ」と挨拶した

という。

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