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アネットヘブン物語1

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アネットヘブンは1954年12月に、ラスベガス、アネットマーティンに生まれた。

彼女は政治的には保守的で、宗教的には厳格なモルモン教徒の家庭に生まれた。
それにもかかわらず、彼女は11歳の若さでオーガムスを経験した。
「私は自分自身で、浴槽の中で自分の体をあちこち悪戯して遊んでいたけれど、初めて
オーガムスを経験したときは椅子にすわっていたわ。「ワウ」私は思ったの。

「何か素晴らしいものを見つけたわ!」ってね。彼女の最初の性交経験はその5年後、
16才の時だった。

「私は実際にははじめから最大限に楽しんだけど、それを味わうには、経験がないとね」。
同じ年に彼女は同い年のボーイフレンドと恋におち、家をでて、結婚した。結婚2年間で
破局に至ったが、彼女の言によると、元夫は「精神障害者で、無意識に私を絞殺し、
自殺をしようとしていたの。後に、彼は風呂場で両方の手首の動脈を切って州立精神
病院に行ったわ。私は結婚したんだから、できるだけ我慢しようと決心したの。」

その時までに、アネットはさまざまな職業について夫を助けていた。

「看護助手をしたり.. ...ヌードモデルをしていたこともあるわ。それからマッサージパーラー
で働いていたの!客の男性は私たちの胸や性器に触れることができないし、私たちも
ペニスに触れてはいけないの。でも、大腿をマッサージしてあげるだけで結構楽しんで
いたわ」と彼女は笑った。


ポルノ映画と 大学への復帰: 1973-1975

離婚後、アネットはサンフランシスコに移住した。バレーを習って、エロチックなショー
で踊り始めて、とうとうストリッパーになった。あるストリップクラブで働いていた時、
ポルノスターのボニー=ホリデイと出会い、ボニーと彼女のボーイフレンドだった
ダニーと一緒にそこを出て行くことになった。「3年間というもの、なんというか妻妾
同居の共同生活だったわ」同じ年の12月、19歳になったばかりのアネットは最初
のポルノ映画に出演した。ボニー=ホリデイから持ち出されたの。彼女の友人が
Lady Freaks' (1973)って映画をとるからどう、ってね。それでプロデューサーに
あったのよ。題が気に入らなくてね。最初のタイトルは 'The Prowler(うろつく男)
だったの。こっちの方が
まだなぞめいていていいでしょ?

たぶん'Lady Freaks' の方が受けがいいんでしょうけど」この映画にはボニーも
出演していた。 「一緒に出演しただけよ。男性とのからみはなかった。でも
楽しかった。」彼女は後に、セックスは簡単で、台詞をいうより私には容易だった、
最初カメラは怖かったけれども直ぐ慣れたわ」と語っている。第二作は「Deep
Tango' (1974)」で彼女は後に「へんてこで、すぐ飽きがくるような駄作だったわ。
ここで最初に男優とからんで、それは上手くいったし、特に恥ずかしいとは思わ
なかった。


それから1974年に一度引退するまで2本のポルノ映画に出演した。「私は大学に
もどったの。専攻はビデオ技術よ・・もう映画の世界にもどってくる気はなかった。
学校を中退したことにまだ罪悪感があったのね。ここで、ボニーホリディと彼女の夫
との関係は終わりを告げた。
彼女は後にこの関係を 「上手くいかなくなっていった。特に女性にはね。私たちは
なんというか、お互いに愛し合っていたの。ボニーは私に、彼女とも彼女の夫とも
結婚して欲しいと思っていたのよ。でも今になってみると、私と彼女の関係、私と
彼女の夫の関係は実際に起こったこととはぜんぜん違っていたの。ボニーは私を
すごく嫉妬していたと思うわ。私にとっては彼女よりも
彼女の夫の方が大切におもえてきたし・・とにかくぜんぜんうまくいってなかったわ。」

 この関係はうまくいかなかったが、アネットはその後もポルノ業界の内外の女性と
不倫関係があった。「私はバイセクシャルだから男女とも関係できるのよ。ただ
、私はどちらかというと異性関係の方が・・つまり男の方が好きなの。」


ポルノ業界への復帰: 1976-1979

一度はこの業界から足をあらって、一大学生になったアネットだったが、結局大学
は落第し
1976年に業界に復帰した。復帰後は「Autobiography of a Flea' (1976)」や
「Tell Then Johnny Wadd Is Here' (1976)」「 Easy Alice(1976)」などに出演した。そして
Autobiography of a Fleaの演技でロスの成人フィルム協会の主演女優賞にノミネートされた。

結局受賞はしなかったもののアネットはこのノミネートに驚いた、と語っている
。「私は4番目の扱いで、出演シーンもちょこっとだけ。台詞も「おお、ピエール」と
4回いっただけよ。もちろんその間には演技したり、悲鳴をあげたりしたけれど」この
映画で彼女はジョン=ホームズと共演した。

「性交シーンでは最初はちょっとつらかったけど、直ぐ慣れたわ。14インチといっても
全部を挿入されるわけではないし、私も物理的に大きなサイズの方が好きだけど、
14インチが最高ってわけじゃないわ。感受性と理解力、テクニックが問題よ。サイズ
だけじゃないわ。彼はとっても優しかったし・・」

アネットは、柔らかい小柄な身体つきで、ただちに成功を収めた。しかし彼女は第
一作のLady Freaks出演以前に演技経験が全くなかったことを認めている。 「私は、
ダンスの経験があるだけで、演技の経験はなかったわ。私は本当に演技や映画の
制作について何も知らないで、最初の映画に出演したわ。でも、私はすぐに学ん
だわ。" 1970年代後半、アネットの人気はうなぎのぼりで、に、彼女は彼女の最高
の映画に次々と出演した。

「とにかく素晴かったは、そうね。あらゆることが上手くいっていて、あのころの映画

ラインナップは今でも私の誇りだわ。私は一日150ドルのキャリアからスタートした
のよ。みんな私の報酬はとても高いのを知っているのに、出演依頼の電話は文字
通り鳴りっぱなしなの。もうやめてって感じよ」。...彼女は自分自身を上品なポルノ
スターとしてだけではなく、信頼できる女優として確立したのだ。。

さらにセレナ、ヴァネッサデルリオ、アネットなど、彼女の同時代人の多くとは
異なり、、彼女はカメラの前で何がないだろうとして線を引いた。もっと言えば、
彼女の同業者、つまりセレナとかべネッサ=デル・リオとか 異なり、アネットはカメラ
の前ですることとしないことをはっきりさせたのだ。男性の射精を顔でうけとめる
なんて、とんでもないわ。私はそれが物語の中で必然性がない限り、下品な
行為はしないわ。SMシーンもアナルセックスもだめよ。排尿も獣姦もだめ、
ストレートなセックス以外はだめなのよ。
ディルドも反対!」

にもかかわらず、彼女の自然な美しさと、映画プロデューサーの羨望の的である
演技能力のためだけではなく、大衆の支持により、彼女は"思考力をもった性の
女神」として知られている。とはいえ、アネットはすくななからずボンデージやS
Mフィルムにも撮影/出演している。

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